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朝鮮人「強制連行」問題とは何か(中)

動員の3倍にのぼる「出稼ぎ」労働者


さらに重要なのは、昭和14年に戦時動員が始まってから後も終戦まで、そうした出稼ぎ渡航が一貫して続いているという事実である。

「募集」期間に相当する昭和14年から昭和16年の3年間で、内地に渡航した朝鮮人は約107万人であるのに対して、そのうち「募集」制度に則って内地に渡航した朝鮮人は約14万7千人(厚生省統計)に過ぎない。 つまり、「募集」以外に約92万人もの渡航者がいたのである。 全渡航者のなかには内地から一旦朝鮮半島に帰り再度内地に渡航したものも含まれているが、「募集」という戦時動員による渡航者が、朝鮮人の内地渡航者全体のわずか16%に過ぎないことは注目に値する。

さらに、西岡力氏の分析によれば、この3年間で内地の朝鮮人人口は約66万9千人増加している(昭和13年末の人口は約79万9千、昭和16年末のそれは146万9千)。 ここから内地での自然増(家族の呼び寄せなど家族で生活している多数の朝鮮人がいたので内地でも二世が生まれている)の8万1千を引くと、朝鮮半島からの渡航による人口増は58万8千となる。 この間の「募集」による動員数は14万7千だから、「募集」以外の渡航者によって約44万が増加したという実態が見えてくる。 つまり、戦時動員期間でも、動員の3倍以上の人たちが自らの意志で日本に渡ってきていたのである。

この流れは「斡旋」「徴用」の時期についても変わらず、昭和17年1月から20年5月までの内地への動員数は約52万。 この同じ期間に朝鮮半島からの渡航者数は130万7千人だから、ここでも渡航者の約6割が動員以外ということになる。

こうした渡航・移住によって、終戦時には約2百万の朝鮮人が内地にいたと推定されている。 しかし、終戦当時、動員先の職場にいた朝鮮人は約32万2千人。 それ以外に朝鮮人の軍人・軍属が約11万2千人。 併せて、動員された者は43万5千人となり、終戦時の朝鮮人人口の約22%にしかならないということになる。

いずれにしても、戦時動員と並行して、かくも膨大な朝鮮人が自らの意志で日本に渡航していたわけであり、その事実を踏まえれば、嫌がる朝鮮人を無理やり日本に連れて行ったという「強制連行」イメージは明らかに虚像と言わざるを得ない。


「日本に来たがってたの、大勢いたんだ」


実は、いま出回っている「強制連行」証言を子細に見ると、そうした事情を裏付ける証言がいくつも見つかる。

以下は、「斡旋」の時期に渡航してきた人たちの証言であるが、当時の「斡旋」によって渡航した人たちの事情がよく理解できる。 (いずれも引用は『百万人の身世打鈴』から)。

例えば、姜壽煕という人は、昭和17年に面長(日本の村長にあたる)と駐在所の所長から「日本に行け」と言われて日本にやってきたのだが、こう述べている。

「目本は天国だと思っていました。 村から日本に行った人が帰ってくると、洋服を着て中折れ帽子を被って革靴を履いているんです。 親は親で、『うちの息子は日本から帰ってきて、革靴を履いている』と自慢していました。 ……その頃は、朝鮮では村一番の金持ちの子どもでも革靴など履けなかったのです。 ……ですから、『日本に行け』と言われたとき、そんなに抵抗感もなかったのです。」

また、李斗煥という人も同じ頃に「斡旋」を受けている。 

「役所に呼び出されて『日本へ行ってくれ』と言われた。 いやとも言えないしな。 まあ正直いえば嬉しかったの。 日本に来たくてもなかなか来られないんだから。 韓国にあっても、仕事ないし、百姓ぐらいだから。 おれだけじゃなくして、日本に来たがってたの、大勢いたんだ」

「斡旋」は、「募集」とは違って朝鮮総督府の行政機関が関わり、罰則はないもののある種の圧力を感じていたことも分かるが、それ以上に日本への渡航熱が窺える。

こうして見ると、戦時動員とはいうものの、特に「募集」「斡旋」については、実態としては大量の「出稼ぎ」の流れを、戦争遂行のための炭坑、鉱山、軍需工場へ転換させようとしたとも言えるのである。


相当高額だった朝鮮人労務者の収入


とは言え、証言集などを読めば、炭坑での坑内作業やダムエ事での過酷さ、少ない配給食糧による飢餓、朝鮮人に対する差別、そして堪りかねての逃亡……というエピソードが溢れている。 こういう話を聞けば、制度としての動員とは別に、現場の実態は「強制労働」ではないのか、という疑問は残る。

確かに、農業しか経験のない人たちが、わずかな訓練だけで炭坑の坑内作業やダム建設などの土木現場で働くというのは、相当な困難が伴うことは想像に難くない。 国語を解さなかった者も多かったという。 管理者である日本人との軋礫も当然あったであろうし、生活習慣の違いも大きかったであろう。 実際、そうしたトラブルは「特高月報」にも毎月何件も報告されている。

しかし、話はそう単純ではない。 当時、何度か朝鮮人移入者の労務調査が行われているが、食糧の配給については職種(例えば炭坑では坑内作業と坑外作業)での配給量の違いは見られるものの、日本人と朝鮮人を理由とした違いは見られない。 また、給与についても熟練度による違い(戦時期には日本人は比較的高齢の労働者しか残っていない)はあるものの特に差別があったとも思えない(昭和18年・労働科学研究所「半島労務者勤労状況に関する調査報告」などによる)。

むしろ、戦時にあっては動員された朝鮮人の大半が就労した炭坑や鉱山、土木事業は、労働環境は厳しかったが、その分厚遇されていたというのも事実である。 昭和19年頃の九州の炭坑での賃金は1日4円~8円(平均5円)で、これに各種手当がついて月収は150円~180円、勤務成績のよいものは200円~300円であり、同じ職種では日本人徴用者に比較して「はるかにいいのが実情である」と指摘されているくらいである。 従って、朝鮮の親元への送金や貯金(徴用時は強制貯金)も行われ、「半島労務者の送金は普通30円~50円程度」であったという(大内規夫「炭山に於ける半島人の労務管理」昭和20年5月)。

ちなみに、当時、巡査の初任給が月額45円、事務系の大学卒の初任給が75円、上等兵以下の兵隊の平均俸給が10円弱だから、朝鮮人労務者の収入が相当な高額だったことが分かる。