SEO研究部研究科 -3ページ目

朝鮮人「強制連行」問題とは何か(下)パート1

~「強制連行論」の虚構~

朝鮮人を外国人として捉える虚構の上に「強制連行論」は成り立っている。 しかし、当時、朝鮮人も同じ日本国民であったというのが歴史の真実だ・・・・・

ある徴用工の手記

上では、朝鮮半島における戦時動員は緩やかに段階的に行われたこと、また戦時動員以外に大量の朝鮮人渡航者の流れがあったという事実を示し、その上で労働の実態においても(例外はあったであろうが)戦時動員された人々の待遇は決して悲惨なものではなかったことをマクロの数字で紹介した。

続いて、待遇の実態について具体的ケースを紹介しよう。 鄭忠海という人が書いた『朝鮮人徴用工の手記』(河合出版)がある。 この手記は戦後の思いこみも多少あるが、徴用時の記述はかなり正確である。 ソウルのコンクリートエ場で事務の仕事に就いていた鄭氏は昭和19年11月末に徴用される。 結婚していて、3歳の男の子と6カ月の女の子がいた。 既に本土では空襲が始まっており、日本に行くのは「わざわざ爆撃を受けに行くようなもの」とは思いながらも、「徴用令状を受け取れば拒絶することはできない」と思ったという。 徴用先は広島の東洋工業で、仕事は銃の部品作りだった。

ソウルの永登浦区庁前の広場に集合し、さらに各地から動員された人たちとともに商工会議所で送別会が催された。 そして、釜山から連絡船、鉄道と乗り継いで広島に着く。

鄭氏は徴用先での生活環境について非常に詳しく書いている。 住居は新築された寮で20畳ほどの広い部屋に「新しく作った絹のような清潔な寝具が」1人分、きちんと整頓されており、片方には布団と私物をいれるのだろう、押入が上下二段になっている……住についてはまずまずだ」。 また、食事は「食卓の前に座っていると、やがて各自の食事が配られた。 飯とおかずの二つの器だ。 飯とおかずは思いのほか十分で、口に合うものだった」

昭和19年末の生活環境としては「まずまず」どころかかなり恵まれたものと言えよう。この鄭氏の月給は140円。 従ってお金には十分な余裕があった。 「みんなが集まって生活してみると、いろんな人がいる。 ある人は“みかん”や“ネーブル”を、またある人は“なまこ”や“あわび”など、さらには酒まで求めて来て夕食後に宴会を開く。 これはここに来ている人たちの愉しみであり、唯一の慰めでもあった」。

終戦を迎えてからは一日も早く帰国したいと、日本政府が用意した帰還船がもうすぐ出るから待つべきだという周囲の声を聞かず、同僚100人とともに1人400円を払って船を雇う(つまり、400円以上の現金を貯めて持っていた被徴用者が100人もいたということである)。 船の出発に当たっては簡単な歓送会があり、日本人の舎監長が声をつまらせながら別れの言葉を述べ、鄭氏が百人を代表して挨拶した。 そして、親しくなった町の人たちと別れを惜しんで出発した、という。

むろん、こうしたケースは例外だと言うこともできるかもしれない。 しかし、圧倒的な人手不足のなかで軍需工場が生産を続けるためにはどうしても朝鮮人労働者を必要とした日本側の事情を考えれば、単なる例外とは扱えないと思える。 むしろ、こうした事実関係を無視した「強制連行」論の方が間違いではあるまいか。

「逃亡」できたのは何故か

事実をさらに挙げれば、「強制連行」論ではとても理解できないことがいくつもある。 例えば、動員先の職場からの離脱(つまり逃亡)である。

現在出版されている、いわゆる「強制連行」の「手記」には、過酷な労働のために「逃亡」したとする話が度々登場する。 しかし、それらの「手記」では逃亡してもほとんど別の飯場なり炭坑なりで働くことになる。 なぜ、朝鮮から「連行」された人たちが次々に職場を移ることができたのか。

そうしたケースを紹介しておきたい。 『在日朝鮮人関係資料集成』(第5巻)に昭和20年9月、大阪府下河内長野の警察署長が金谷、金山という二人の「逃亡」朝鮮人を取り調べた報告書が収録されている。 金山正掲(日本名)という人物は、昭和20年3月に徴用され、河内長野の鋳鉄工場で働き始めたのだが、そこで神農大律という朝鮮人の隊長(徴用者は隊組織になっていた)と衝突して、崔という同僚とともに7月末に徴用先から逃亡する。 ちなみに、その時点で金山が所持していたのは250円。 給与は書かれていないが、5ヶ月弱で250円を貯めたことになるわけだから、先の鄭氏と変わらない高給だったと推定できる。

金山は、崔と二人で闇の切符を買い、東京・立川まで行く。 立川駅前で出会った朝鮮人に小河内村にある飯場を紹介され、そこで働くことになる。 8月2日には、さらに山奥に連れて行かれ、運搬作業をしたが、仕事は半日で終わってしまった。 それで日給は15円。 翌3日は陸軍が管理するトンネルで同じく運搬の仕事をして15円。 4日は休んで東京見物。 しかも、高幡不動で別の飯場を見つけ、小河内村は「山奥デ淋シイカラ」ということでその翌日から高幡不動の飯場に移る。 その飯場では半島人が300人くらいいて防空壕を掘っていた。 金山は測量の手伝いや壕の天井に板をさす仕事をして過ごす。 そして、終戦になった後、「親切ニシテ下サツタ寮長ノ事ヲ思ヒ」「御詫ビニ寄セテ貰フ」ために、別に逃亡していた元同僚の金谷とともに、最初に徴用された大阪・河内長野の工場に戻る。

もう一人の金谷の方はというと、彼は前述の金山より同じ徴用先から一足先に逃亡したのだが、事前に遠縁に当たる宮津在住の金村という人物と連絡をとり、京都府の宮津に行く。 そこで飯場を紹介してもらい、海軍の防空壕堀の仕事をする。 最初の半月で150円、後の半月はわずかの日数しか働いていなかったが200円くれたという。 しかし、仕事が辛かったので、「長野ノ寮ノコトヲ、イツモ思ヒ出シタ」と言っている。 その後、仕事を変えるが、9月になって東京から金山がやってきて、「北井寮長サンガ懐シクナリ謝罪シ様ト思ツテ」、金山と二人で河内長野の工場に帰ってきたと、述べている。

これは終戦直前の話であるが、何とものんびりしたもので、また日本人の寮長の親切が身にしみていたであろうことがよく分かる。 「強制連行」のイメージからはほど遠い。

前号で書いたように、動員開始以前に既に80万もの朝鮮人移住者がいた。 彼らのなかには土木工事などの肉体労働に従事するものも多く、そこでは定住した朝鮮人の親方が新たな渡航者を受け入れるというパターンが定着していた。 とりわけ、戦時期には朝鮮人労務者は飛行場作りや大がかりな防空壕作りなど軍関係の土木工事には欠かせない存在となっていた。 当時の用語で言えば、動員された人たちを大きく上まわる数の朝鮮人の「自由労働者」が存在したのである。 だからこそ、仮に徴用先から逃げ出しても簡単に受け入れられる環境があった(そういう環境があったからこそ、離脱も可能だったという言い方もできる)ということなのである。

また、賃金が法定されている徴用より、こうした「自由労働者」の方が賃金も高いケースも多かったようである。 内務省警保局は「朝鮮人は大半土建その他自由労働的性質の労働に従事し従来相当多額の収入を得居りたるに拘らず徴用により急速に収入が激減し……応徴後に於ける勤労意慾も低下の傾向看取せらる」と指摘している(「思想旬報」昭和19年6月10日)。

こうして見てくると、動員先からの離脱(つまり逃亡)は、動員が「強制連行」だったからではなく、「強制連行」ではなかったから生じたとさえ言えるのである。

動員とともに増えた不正渡航者

動員先での待遇だけでなく、朝鮮からの渡航についても、いわゆる「強制連行論」ではとても理解できない事実が存在する。

朝鮮人の渡航者についての統計は前回に紹介したが、昭和15年(「募集」による動員の時期に当たる)を例にとってみると、戦時動員による日本への渡航者は5万3千人(厚生省統計。 数字は便宜のため百の単位以下は切り捨てで表記)。 しかし、同じ年の朝鮮からの渡航者の総数は38万5千。 つまり、戦時動員以外に約33万人が日本に渡航しているのである。 むろん、このなかには一旦出身地に帰って再渡航したり、既に定住していた者が家族を呼び寄せたケースも含まれるが、その多くは戦時動員以外で日本へ職を求めての渡航者であった。 こうした戦時動員数を渡航者数が大幅に上まわるという事実は統計が残っている昭和19年まで変わらない。

つまり、戦時動員と同時に、それを大きく上まわる大量の出稼ぎ的な渡航が並行的に存在していたのである。 動員が「強制連行」であれば、無理やり日本に「連行」される人たちと同じ日本へ、自らが旅費を払って出稼ぎに行く人たちとが同じ船に乗り合わせていたということになる。 「強制連行」のイメージからすれば何とも奇妙な構図である。

一方、当局は正規の手続きを踏まない渡航を止める努力をしていた。 西岡氏によれば(前出論文)、大正14年から戦時動員が始まる昭和13年の間、証明書など所定の条件が不備のために渡航を差し止められた朝鮮人は労働者、家族を含めて16万3千人にのぼる。 また、昭和8年から13年までに朝鮮の出身地で、渡航を出願したものが108万7千人。 それに対して6割の65万1千人が「諭止」されている。

それでも正規の手続きをとらない不正渡航が後を絶たなかった。 内務省の統計によれば、昭和5年から17年までの13年間で、不正渡航者は発見されただけで3万9千人にのぼる。 しかも、西岡氏によれば戦時動員の始まった昭和14年から17年までの4年間は、発見された不正渡航者が2万2千人(13年間全体の58%)と動員前に較べて急増している。

では、内地の取締当局はこうした不正渡航者をつかまえて、これ幸いとどこかの炭坑にでも送り込んだのだろうか。 話はまったく逆で、当局は不正渡航を取り締まり、朝鮮へ送還している。 ちなみに昭和14年から17年までに、1万9千人が日本の港から朝鮮へ送還されている。 「強制」というなら、まさにこの朝鮮への送還こそ「強制」であった。

こうした不正渡航の取締まりに当たっていた福岡地方裁判所の検事はこう述べている。 「本県に於きましても、毎月200名内外の密航者を掴まへて、勿体ない様でありますが、之を送還する為、1人当り2円とか3円とかと云ふ旅費を使つて送還して居る状況であります。 県内に労働力の不足して居るのに勿体ない事でありますが、今日では已むを得ない事であります」(昭和14年3月「福岡県下在住朝鮮人の動向について」・『在日朝鮮人関係資料集成』第4巻)

この検事はこうも述べている。 「現在の鮮内、と申しましてもそれは主として北鮮地方でありますが、非常に重工業が発達して参りまして人的資源が不足しているのであります。 で如何にして南鮮地方のものを北鮮に移住せしむるかと云ふことを苦慮して居るのであります。……処が朝鮮人は北鮮に移住するのを好まない傾向がありまして、内地に渡来したいと云ふ希望が相当多い様であります。

……密航してくる朝鮮人は……大抵最低30円乃至40円位の金を密航ブローカーに渡すそうであります。 其の金を作る為に自分の家、屋敷、田畑その他を売つて裸一貫になつて内地に密航して来るのであります。 それが掴まつて朝鮮に帰されるのであります。……密航と云ふ事自体が、犯罪として取り扱ふ事の出来ない結果、又密航ブローカーを厳重に処分する法規がない為、私共の活動其他朝鮮当局の取締あるにも不拘(かかわらず)其の数なり活動が一向に減じて居ないのであります」

「強制連行」論者は、これらの不正渡航者は、借金までして自ら進んで「連行」されようとした、とでもいうのだろうか。

さらに、戦時動員が始まってからは、「不正渡航の手段」として「募集」や「斡旋」を利用するものすら現れる。 内務省警保局の「募集二依ル朝鮮人労働者ノ状況」によれば、「応募ヲ内地渡航ノ手段トシタル者アリ、之等ハ坑内作業二恐怖ヲ感ジタル者等ト同様逃亡シツツアリ……更二移住朝鮮人中ニハ他人ノ替玉トナリ渡航シタル者アリ……」とある。

事実、朝鮮総督府の送り出し統計と内地で受け入れた労働者を記録した厚生省の統計には明らかな差がある。 昭和14年から16年の3年間で、朝鮮からは16万9千人が送り出されているのに対して、受け入れた厚生省の統計では14万7千と、約2万2千の差がある。 このかなりな部分は、内地への渡航手段として戦時動員(この場合は「募集」)に応じ、内地到着後に逃亡したものと思われる。

戦時動員を「強制連行」というなら、その「強制連行」に潜り込んでまで、内地渡航をしようとするものが多数いたということになり、何ともマゾヒスティックな話になってしまう。