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朝鮮人「強制連行」問題とは何か(上)

「人さらい」同然の連行、「使い捨て」さながらの酷使、それに堪えかねて逃亡する朝鮮人……しかし、そうした「強制連行」論は、あまりにも戦時動員や労務事情と違っている・・・・・・

全容解明までほど遠い拉致問題、そして核開発問題を抱えて、日朝交渉が始まった。 「平壌宣言」は、日朝双方が「国及び国民のすべての財産及び請求権を相互に放棄する」こと、国交正常化後に日本側が経済協力を行うことを明記しているのだから、国交正常化に当たっては戦時補償や賠償の考え方を採らないというのである。 だとすれば、国交交渉もその後に予定されている経済協力も、「植民地支配」に対する「反省」や「お詫び」とは関係なく進められるはずであるのだが、非常に心許ない観がある。 というのも、これまで日朝だけではなく日韓においても、政治交渉にあたっては常に歴史力ードが使われ、日本側が譲歩してきたからである。

北朝鮮は、今回はいわゆる「強制連行」問題を持ち出すのであろう。 既に「現在わが国には過去、日本に強制連行されて半世紀が過ぎても生死すら分からない数百万の青壮年の遺族」がいて、「日本人数人の問題」、つまり拉致問題とは比較にならない(9月26日・朝鮮中央通信)と言っている。

しかし、「強制連行」と言っても、いわゆる「従軍慰安婦」問題と同じく、証言ばかりがクローズアップされ、教科書にも掲載されてはいるが、実はその実態はきちんと検証されていないのである。 「強制連行」問題とは一体何なのか。 そのアウトラインを整理してみたい。


「強制連行」は「人さらい」?


現在使われている中学歴史教科書は「強制連行」をこう描いている。 例えば、日本は「不足する労働力を補うために、外国の人を強制的に連行して、本国の鉱山や工場で働かせました。 日本で働かされた朝鮮人、中国人などの労働条件は過酷で、賃金は安く、きわめてきびしい生活をしいるものでした」(東京書籍)。

また、平成13年まで使用されていた教科書のなかには「寝ているところを、警察と役場の職員に徴用令状を突きつけられ、手錠をかけられたまま連行された」(教育出版)とか、「町を歩いている者や、田んぼで仕事をしているものなど手当たり次第、役に立ちそうな人は片っ端から、そのままトラックに乗せて船まで送り、日本に連れてきた。 徴用というが、人さらいですよ」(大阪書籍)という話も掲載されていた。 

教科書だけでなく、今日、「強制連行」関係の証言集なるものが数十冊も出版されている。 そこに出てくるのは、「連行」先での「使い捨て同然の酷使」であり、虐待に耐えかねての逃亡、捕まった後の見せしめのリンチ……奴隷労働さながらの「証言」がほとんどである。

果たして、こうした拉致同然の日本への送出や過酷な労働はどこまで事実なのであろうか。 証言の事実関係を逐一検証することは不可能に近いのだが、実はこうした証言の内容は当時の戦時動員の実態や労務事情などと大きくかけ離れていることもまた事実なのである。

一例を挙げると、先に紹介した徴用令状を突きつけられ、手錠をかけられ日本の炭坑に連行されたという話は、朴慶植編『朝鮮人強制連行の記録』に掲載されている金大植という人物の手記からの引用だが、手記の原文を読むとこの人物が徴用されたのは昭和18月の話となっている。 後に述べるが、朝鮮半島において「徴用」という強制力をもった戦時動員が行われたのは昭和19月以降のことである。 昭和18年段階では軍関係がごく少数の徴用を行っていたが、徴用先は海軍工廠などであって炭坑ではない。 また原文では回も徴用令状(正しくは徴用令書)を受けたにもかかわらず逃げていると語っているが、徴用拒否が事実だとすれば、年以下の懲役である。

もう一つの手当たり次第連行したという話も、同じ『朝鮮人強制連行の記録』に引用されている話である。 こちらの方は「昭和16年か18年」に「朝鮮人を徴用に行った(炭坑の)労務の係から聞いた話」をさらに又聞きしたものとして登場する(こんな出典の暖昧な話が教科書に載っていたのだから驚く他ない)。 これも徴用されたとすれば時期が違うし、しかも徴用は徴兵と同様の強制力をもった動員なのだから、わざわざ炭坑の労務係が朝鮮半島に出張して「人さらい」をやる必要などない。 そもそも、戦時でも平時でも「町を歩いている者」をさらっていくなどということが朝鮮各地で行われていれば暴動が起こっているはずである。

つまり、こうした証言の多くは、戦時動員の実態や当時の労務事情などからして、あまりにも信愚性に欠けると言わざるを得ないのである。 少なくとも、まず当時の朝鮮人に対する動員の実態という枠組みなどの事実を踏まえなければ、そのまま受け入れることは出来ない代物と言えよう。


ゆるやかだった朝鮮の戦時動員


では、この「強制連行」問題を検証する際に、踏まえられるべき事実とは何であろうか。

一つは朝鮮に対しては内地と比較してかなり緩やかな戦時動員が実施されたという事実である。 昭和14年、前年に成立していた国民総動員法に基づいて国民徴用令が発せられ、戦時動員が開始される。 しかし、朝鮮ではこの国民徴用令が三段階にわたって緩やかに実施された。

まず、同年九月から「自由募集」という形で戦時動員が始まる。 これは、炭坑、鉱山などの内地の事業主が厚生省の認可と朝鮮総督府の許可を受け、総督府が指定する地域で労務者を募集し、それに応じた人たちが内地に集団渡航するというものである。 

実は、戦前の日本政府は、朝鮮人の内地渡航に対しては治安や労務面で社会問題があるため就職や生活の見通しを持たない朝鮮人の渡航を制限する行政措置を講じていた。 日本への渡航には証明書を必要とするとか、釜山など出発港において就職先や滞在費を持たない渡航者の渡航を認めない渡航諭止制度を設けるなどしていたのに対して、この「募集」制度は、戦時動員の一環としての「募集」手続きに従った内地渡航に限っては渡航制限の例外としたのである。 

従って、戦時動員とはいうものの、平時の渡航とほとんど変わらないものであった。 ところが、この「募集」方式では、当然のことながら、動員計画はほとんど達成されなかった。 昭和16年までの年間は動員計画数25万5千に対して、「募集」で送り出された朝鮮人労務者は14万7千人に過ぎず、達成率は66%に留まった。 また、応募者の大半は農民であり、炭坑鉱山などの坑内作業を嫌い、職場を離脱するものも多かった。

そこでこの「募集」に替わって、昭和17年から採られたのが「斡旋」という方式である。 これは、企業主が朝鮮総督府に必要とする人員を許可申請を出し、総督府が道(日本の県に当たる)を割り当て、道は郡、面に人員の割り当てを行う、つまり行政の責任において労務者を募集するというシステムであった。

さらに、この「斡旋」が昭和19年9月から「徴用」に切り替わる。 道知事の徴用令書によって出頭し、指定された職場で働く義務を伴う、いわば兵士の「応召」に準じるものであった。 「国家から命じられた職場で働く義務があり、その工場なり事業場の事業主とは使用関係に立ちますが、直接雇用関係に立たず、(被徴用者は)あくまで国家との公的関係にある」(朝鮮総督府『国民徴用の解説』)わけであるから、徴用先も労務管理の充実した職場に限られ、給与も法定され、留守家族援護から収入減の場合の補償に至るまでの援護策が講じられた。 また、同様の措置が「斡旋」で既に稼働している者にも現員徴用として適用された。

むろん、「徴用」の場合は忌避すれば罰則があり、国家総動員法によって一年未満の懲役又は千円以下の罰金に処せられた。 これに対して、「募集」「斡旋」に対しては、当然のことながら応じなくても罰則はなかった。

また、「募集」「斡旋」の場合は、配属された職場から離脱しても罰則はなく、離脱したり契約期間(多くの場合は1年~2年)を終えて内地に残留しても、日本国民としての公権(参政権など)が保証された。 これに対して「徴用」の場合は、指定された職場から離脱すれば徴用拒否と同じ罰則があった(ただし、「特高月報」などをみると実際は職場離脱によって検挙されても、ほとんどは元の職場に復帰させられるか朝鮮へ送還されている)。

こう見てくると、朝鮮での戦時動員は内地より遅れて、しかもはるかに緩やかに実施されたということが分かる。 また、内地と違い朝鮮では最後まで女子には適用されなかった。 徴用だけでなく朝鮮においては徴兵も昭和19年10月になってようやく実施されている。 なお、「徴用」による日本への送り出しも翌20年3月末には関釜連絡船の運行が止まり、わずか7ヶ月で終わる。

「徴用」は、まさに強制力を伴った戦時動員であった。 それを「強制連行」というのであれば、既に全面的に実施されていた内地の日本人はほとんど「強制連行」されていたということになる。


動員前からあった朝鮮人移住者の奔流


第二に重要なのは、内地に渡ったのは動員による朝鮮人だけではないという事実である。 あまり知られていないが、戦前の日本には戦時動員とは別に自らの意志で内地に渡ってきた大量の朝鮮人移住者がいたからである。 

この朝鮮人移住者については各種の統計資料をもとに森田芳夫氏が書かれた『在日朝鮮人処遇の推移と現状』(昭和30年7月、法務研究報告第43集第3号)などの論文、さらに森田論文をもとにした西岡力氏の論文「朝鮮人『強制連行』説の虚構」(月曜評論・平成12年8月~11月号)があり、これらの研究を参考にさせていただきながら、簡単に紹介したい。

先に述べたように朝鮮人の内地渡航は制限されていたが、明治43年の日韓併合以降(明治44年末で2千5百余り。 以下、百の位以下は切り捨てで表示する)、一貫して内地の朝鮮人人口は増え続けてきた。 とりわけ大正10年から終戦までの25年間は顕著で、森田芳夫氏によれば、在内地の朝鮮人人口は大正10年末には約3万8千だったのが、昭和2年末には約16万5千と増加し、昭和13年末には79万9千に達している。 先に述べたように朝鮮半島での戦時動員は昭和14年9月にはじまるが、戦時動員が始まった時には既に約80万の朝鮮人が日本内地に在住していたのである。 これは今日の在日韓国・朝鮮人より20万も多い数である。

どういう人たちが内地に渡ってきたのかというと、「一般の海外移民のように、一家をあげて指定された移住先に定着するというのではなく、出稼ぎ的労務者として、日本内地に渡航し、職や住所を転々としつつ漸次生活の基盤を開拓し、その家族をよびよせたのであり、かつ、たえず朝鮮の故郷の地と往復していた」(森田芳夫『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史』)という。

こうした大量の出稼ぎ移住が起こったのは、ひとえに朝鮮半島の人口急増によるものであった。 簡単に言えば、併合当初約1千3百万だった半島人口は終戦時には約2千9百万(朝鮮半島2千5百万、日本内地2百万、満洲・華北2百万)と35年で2倍以上に急増している。 これは衛生状態の改善による出生率の向上と死亡率の低下もあるが、何より農業生産性の向上によるものである。 1町歩当たりの米の収穫量をみると、明治43年の併合当初は7.69石であったものが、昭和8年の段階では10.72石と約4割も増えている。 日本統治下で農業生産性が向上した結果、朝鮮半島の人口が増え、さらに移住へとつながっていったのである。

しかし、朝鮮には急増した農村人口を吸収できるだけの都市も産業もまだなく、増えた人口の大部分を農村が抱えることになり、昭和5年の総督府の統計によると春窮農家、つまり秋の収穫を食べ尽くし春には食糧不足となる農家が半数近くを占めている。 一方、日本には多数の出稼ぎ移住を受け入れる労働力需要があり、とりわけ戦時景気の起こった支那事変以降はその傾向は顕著だった。

しかも、渡航が行政的に制限されていたとは言え、当時の朝鮮人は同じ日本国民であり、日本政府も朝鮮総督府も日本内地に出稼ぎ移住するのを法的には止めなかったため、こうした大量の移住者が出稼ぎのために渡航したのは自然なことでもあった。